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徳川 慶喜 1837-1913
(とくがわ よしのぶ)
享年77歳。
通称:七郎麿
諱:昭致
字:子邦
号:興山
□水戸藩主・徳川斉昭の七男として、江戸
小石川の上屋敷で生まれた。
父・斉昭の方針で、水戸にて幼少の
頃から、勉学に励む。
□1847年(弘化4年)、12代目将軍・徳川
家慶の命により、慶喜は御三卿の一橋
家へ養子となり、その家督を継いだ。
□将軍・家慶より一字を得て、慶喜と名乗
り、1853年(嘉永6年)に今出川実順の
妹・美賀子と婚約。その2年後に結婚を
している。
□1857年(安政4年)、幕府は、アメリカ総
領事・ハリスとの交渉で、日米通称条約
締結へと詰めの話をしている時期に、
次期将軍問題が勃発した。
慶喜側近の平岡円四郎が「慶喜公御言
私記」を作成。この書が福井藩主・松平
慶永の手に渡ると、慶永は「橋公略行
状」として、幕府老中に配布した。
英才の誉れ高い一橋慶喜を次期将軍に
しようという提案であって、これが、その
翌年に幕府大老職についた井伊直弼と
の対立を生み出した。
井伊大老は、天皇から条約締結の許可
勅許がいつまでたってもおりないことに
業を煮やし、ついに幕府一存でアメリカ
と条約締結をしてしまった。
この強引さに憤慨した松平慶永、一橋
慶喜らは、強引に江戸登城を成し、井伊
大老を詰問した。
しかし、この強硬な詰問行動が問題と
なり、1859年(安政6年)に安政の大獄
という処罰の形となった。
慶喜は隠居謹慎処分を受け、翌年に
井伊大老が桜田門外暗殺されると
処分を解かれている。
□尊攘・藩政改革派に擁され、徳川家茂
と将軍継嗣を争うが敗北。
□安政の大獄の際、蟄居を命ぜられる。
□1860年、大老・井伊直弼が没すと、将軍・
家茂の後見役となる。
□禁門の変で長州藩を京都より押し出す
と慶喜は、松平春嶽や会津藩、薩摩藩
とともに参与会議を朝廷内で開き、公武
合体派の政策を打ち出した。
しかし、会議は当初からつまづきを見
せ、しっかりとした政策を立てられずに
崩壊へと至った。
幕府内にも尊王派はいたが、天皇を利
用して将軍の権威を盛り返し保とうとす
る保守的な部分が強かったため、朝廷
と幕府との間の溝は埋まらなかった。
□1866年、徳川幕府最後の将軍となる15
代将軍職に就任。
□フランス公使・ロッシュの助言などを取り
入れ、幕府権勢の巻き返しを図り、奮
闘す。
□1867年、討幕の流れを見抜き、朝敵と
なるの回避すべく、大政奉還を断行。
鳥羽伏見の戦いの後、恭順す。
□1902年、公爵となる。
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幼い頃より英才教育を施され、”麒麟児(きりんじ)”と周囲の者たちにいわしめさせた、生まれながらの英雄。
傾きかけた徳川幕府の立て直しを期待され、次期将軍と諸藩より嘱望されていたが、井伊直弼の登場で、弾圧を被る。
幕政への反発が強くなると慶喜は謹慎処分から一転して、幕政を請け負う大役を務め、ついには、将軍職にまで登り詰めた。
だが、政局は幕政立て直し論から離れ、倒幕へと変わりつつあった。
慶喜の必死の巻き返しもむなしく、幕府は大政奉還、戊辰戦争にて大敗を喫し、慶喜は朝敵の汚名を被り、再び謹慎を経て、明治維新を迎えた。
その俊逸な政治手腕を新時代に活用できなかったことが惜しまれる。
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