”麒麟児”と謳われた秀才で、雄藩より将軍擁立を受けたが、
安政の大獄で挫折。その後、将軍となり巻き返すが時運を得ず。

幕末の志士屈指の先見力で新時代を展望す。
転覆寸前の幕府を補佐し、江戸無血開城に成功す。

100年後を見据えた、造船所を建設。幕府補強に尽力し、
紙幣発行など先見性のある治世を目指した。

死中に活を求める秘策・和宮降嫁を実現させたが、坂下門外
の変で負傷す。努力が報われず、失意の失脚を見る。

唐津藩主として藩政改革に成功。幕府老中を三度も勤め
、すぐれた手腕を振るった。長州征伐で失態し、失速した。

最新の西洋兵学を修得し、帰国後、海軍副総裁となる。
官軍に抵抗し、五稜郭にて新政府を樹立するも敗退する。

欧米文化を考究し、黎明日本の啓蒙に貢献する。
学識をもって、近代日本を切り開いた。

幕末三舟の一人。鉄の意志を持つ剣豪。西郷と勝を引き合わ
せ、江戸無血開城の会談を成立させた。

老中・阿部正弘より抜擢された逸材。幕府の柱石を担い、
難局に苦しむ幕府を助けた。

ペリー来航という重要局面の時に将軍を務める。
身体の障害を負っていたため、この難局にあたれず。

公武合体を実現すべく、朝廷と協定する。長州征伐の指揮を
とるも、あえなく病没した。

欧米列強の外圧が日増しに強まる中、難しい外交に苦難する。阿部正弘を登用し、難局にあたろうと試みるがあえなく没した。

日米和親条約など難しい外交政策にあたった。公武合体に
尽力するも、効を奏せず、失脚した。

日米和親条約に苦慮する。朝廷への働きかけも効を奏せず
、頭を抱える日々を送る。

阿部正弘に抜擢され、欧米列強との交渉にあたった。
後に将軍・慶喜からも信任され、要職に就いて、奔走した。

安政の大獄を批判し、蟄居の身となる。その後、復帰を果た
し、将軍・慶喜の側近として活躍する。

剣豪にして、西洋兵器に精通した。幕府軍の近代軍制の
ため、西洋兵学の教授に尽力する。

幕臣屈指の秀才として難局の外交諸問題にあたる。将軍継
嗣問題で一橋慶喜を推進し、大老・井伊直弼にしりぞけられた。

軍学を学び、幕府軍強化にあたった。
講武所が設立されるとその頭取を務める。

軍学、砲術、航海術などさまざまな技能を修得し、活躍する。
開成所の教授を勤め、維新後は郵政制度を開拓した。

幕府お抱えの通訳として活躍する。維新後、開成所で英
語教授に就き、近代日本の啓蒙に貢献した。

柔和な美男子ながら、敏腕政治家として幕末に活躍。
朝廷、雄藩などと協力して外圧にあたる奇策を実施した。

徳川 慶喜 (とくがわ よしのぶ)
1837-1913 享年77歳。徳川幕府十五代目将軍。

勝 海舟 (かつ かいしゅう)
1823-1899 享年77歳。幕府重臣。

小栗 忠順 (おぐり ただまさ)
1827-1868 享年42歳。幕府重臣。

安藤 信正 (あんどう のぶまさ)
1819-1871 享年53歳。幕府老中。

小笠原 長行 (おがさわら ながみち)
唐津藩主。幕府老中。

榎本 武揚 (えのもと たけあき)
1836-1908 享年73歳。幕臣。

福沢 諭吉 (ふくざわ ゆきち)
1834-1901 享年68歳。

山岡 鉄舟 (やまおか てっしゅう)
1836-1888 享年53歳。幕臣。剣客。

大久保 一翁 (おおくぼ いちおう)
幕臣。

徳川 家定 (とくがわ いえさだ)
徳川幕府十三代目将軍。

徳川 家茂 (とくがわ いえもち)
1846-1866 享年21歳。徳川幕府十四代目将軍。

徳川 家慶 (とくがわ いえよし)
徳川幕府十二代目将軍。

久世 広周 (くぜ ひろちか)
1819-1864 享年46歳。関宿藩主。幕府老中。

堀田 正睦 (ほった まさよし)
1810-1864 享年55歳。幕府老中。

永井 尚志 (ながい なおむね)
1816-1891 享年76歳。

板倉 勝静 (いたくら かつきよ)
1823-1889 享年67歳。備中松山藩主。幕府老中。

榊原 鍵吉 (さかきばら けんきち)
1830-1894 享年65歳。幕臣。

岩瀬 忠震 (いわせ ただなり)
1818-1861 享年44才。幕臣。

男谷 精一郎 (おだに せいいちろう)
1810-1864 享年55歳。幕臣。

前島 密 (まえじま ひそか)
幕臣。

中浜 万次郎 (なかはま まんじろう)
1827-1898 享年72歳。幕臣。

阿部 正弘 (あべ まさひろ)
1819-1857 享年39歳。幕府老中。

幕府 ばくふ
≪場所≫ 東京都


 永き戦国時代を終わらせ、未曾有の太平社会を築き上
げた江戸幕府であったが、幕末動乱ともなるとその権勢
は揺らぎだした。
 幕藩体制の外枠を締める鎖国政策が外圧によって、
揺らぎだすと、幕府の権勢も徐々に失墜していった。
特にペリー来航後に幕府が取った広く対外政策の意見
を世間に求めたことは、国政を預かる政治機関としては
あるまじき失態であったと言わざるを得ない。

 朝廷に対して眠っていた政治意欲を呼び覚ますきっか
けとなり、諸藩にしても政治参与の機会を与える結果と
なってしまった。ある意味で最大級の国難に対処する
ために国内一致の協力体制で外圧をはね除けようとする
意図は、国是であったようにも思われる。

 しかし、この対外政策の問題を世間一般にまで広く投げ
かけたことは、幕府が一瞬でも国政主導から手放しを
行ったことに他ならなかった。そのことは、幕府の権勢が
天道不動の存在ではないことを人々に知らしめる結果と
もなったのである。

 幕府がこの後、必死になって幕府権勢の回復を謀った
ものの一向にその成果を得ることができなかったことは、
幕府の失策があまりにも多すぎたことにあった。
 政治の中心は自然と江戸から京都へと移り、志士たち
や公卿たちによって、国政のあり方が左右されるように
なっていった。幕府の権勢も諸国雄藩に頼らざるを得ない
状況となり、結果的に公武合体という朝廷・雄藩・幕府と
いう三局による合議制政権が目指されることとなった。

 幕末前までは、考えられなかった政局の勢力地図であっ
たが、幕臣・勝海舟が述べたようにあまりにも幕府は腐り
切ってしまっていたためにこの勢力地図を甘んじなくては
ならなかったのである。
 国内最大級の石高を誇り、旗本・御家人3万人と言わし
めた膨大な家臣団を抱える幕府も、逸材には事欠いた。
勝海舟のような英雄をかろうじて得ることができたものの
幕臣のほとんどは、怠慢や不正、平和ボケといった具合
で急務を有する国政の変動についていけなかった。

 それでも神戸海軍操練所や伊豆の反射炉建設など莫大
な財力を背景にして、近代化政策を推し進めていったが、
やりかけで施設を廃止したり、諸藩の内情も省みずに無謀
な争乱に力を入れるなど、強引で中途半端という点に結果
が終結してしまうところに幕府の指導者としての能力に
問題があったことは否めない。

 有能な藩主や人材を幕府機関に引き抜き、登用すると
いった粋な人選能力もやってのけていたものの、些細な
問題を気にして、行き着くところは、保守派思想にたどり着
き、有能な人材を活かし切れずに終わってしまう。
 幕府の漸進的な政策では、急務を有する幕末動乱を切り
盛りすることは、もはや不可能となっていたのである。その
ことにいち早く築いたのは、かなり早い段階であった。
 すでに吉田松陰が国政を憂いでいるだいぶ前から、倒幕
思想を持つ志士たちがいた。松陰でさえ、その志士たちが
掲げる倒幕思想に最後には傾倒するに至り、幕府を批判
するに及んで、安政の大獄の餌食となってしまった。

 その後も倒幕思想は行き続け、有志たちによって、試み
られたが、その都度、大失敗となり、大弾圧の末に血祭りに
挙げられてきた。だが、薩長同盟がなるころには、幕府が
幕末の難局を本当に乗り切る力がないと見切ったことで、
幕府の運命も決まってしまったのである。
 薩摩藩は公武合体策を支持し、全面的に幕府擁護に回り
、長州藩と対立関係を形成した。8・18の政変にしても、禁門
の変にしても、常に勤王と佐幕の姿勢を貫き、公武合体の
政権樹立を目指した。
 だが、傲慢な幕府と自己主張が強すぎる各藩主たちの
合議制は夢物語政権でしかなかった。武威を持たない朝廷
では、いくら尊王第一の国情であっても、重石とはならない。
幕府を叱咤激励する力を持たず、諸藩に対しても強い厳命
を下せない朝廷機関を憂う志士たちがたどり着いた結論は
、天皇・朝廷を中心とする統一国家の実現であった。

 欧米列強と肩を並べる軍事力を養うには、まずは仲良くす
る他はなく、欧米列強を見習えば見習うほどに統一国家が
国体のベースとなっていることに志士たちは気づいたので
あった。日本を近代化するには、古臭い幕藩体制を打ち崩し
、天皇・朝廷を頂点中心とする統一国家の形態こそが望まし
い。そのことに気づいた時から、長州藩の取り組みは、正道
となった。
 いたずらに長州征伐戦を起こそうとする幕府は、もはや時
代が求める的確な方策を見失っていた。諸藩は討伐戦争
を起こそうとする幕府に対して、大いに不満を抱き、幕府の
指導者としての能力を疑い出した。そして、結果は見事に
長州藩の奇兵隊ら民兵組織の軍隊に大敗を喫し、あげくの
果てには、大坂を中心に大規模な打ちこわしや一揆を引き
起こしてしまった。
 この大失策を犯した幕府に対して、西日本側の人々の心
は幕府より離れていった。特に尊王思想が正道とされるよう
になると幕府の失策後に薩長が掲げた天皇・朝廷を中心と
する政権の樹立は、大いに応えた。
 諸藩は次々と天皇・朝廷への支持を表明し、幕府の支持
層は一挙に減少していったのであった。第二次長州征伐に
おいて、長州藩に大敗を喫した幕府には、もはや頼みとする
武威を失っていた。もはや幕府をかろうじて支えるのは、旧
来からの忠義風習だけに留まり、情勢を的確に見極めれば
、ほとんどの人々が尊王思想に傾倒していったのである。

 幕府の巻き返しを謀った最後の将軍・徳川慶喜も、日本
近代化という理念においては、志士たちと合致する思想を
持っていたが、幕府が犯した失策を解消するまでには至ら
なかった。
 戊辰戦争によって、旧幕府軍は東日本各地で無残な敗北
を続け、多くの犠牲者を出しつつ、明治政府へと政権交代が
成されていった。唯一、幕府が最大の失策を成さなかった事
と言えば、それは江戸無血開城であろう。
 100万の民を抱える大都市・江戸が戦火から免れ、無傷の
まま、新政府へと受け継がれることは、近代日本がすばやく
成すために、なくてはならない好条件であったのだ。




間部 詮勝 (まなべ あきかつ)
1804-1884 享年81歳。幕府老中。

柔和な美男子ながら、敏腕政治家として幕末に活躍。
朝廷、雄藩などと協力して外圧にあたる奇策を実施した。


伊庭 八郎 (いば はちろう)
1843-1869 享年27歳。幕臣。

柔和な美男子ながら、敏腕政治家として幕末に活躍。
朝廷、雄藩などと協力して外圧にあたる奇策を実施した。


川路 聖謨 (かわじ としあきら)
1801-1868 享年68歳。幕府老中。

柔和な美男子ながら、敏腕政治家として幕末に活躍。
朝廷、雄藩などと協力して外圧にあたる奇策を実施した。


江川 太郎左衛門 (えがわ たろうざえもん)
1801-1855 享年55歳。幕臣。

柔和な美男子ながら、敏腕政治家として幕末に活躍。
朝廷、雄藩などと協力して外圧にあたる奇策を実施した。


西 周 (にし あまね)
1819-1857 享年39歳。幕府老中。

柔和な美男子ながら、敏腕政治家として幕末に活躍。
朝廷、雄藩などと協力して外圧にあたる奇策を実施した。


高橋 泥舟 (たかはし でいしゅう)
1835-1903 享年69歳。幕臣。

柔和な美男子ながら、敏腕政治家として幕末に活躍。
朝廷、雄藩などと協力して外圧にあたる奇策を実施した。


大鳥 圭介 (おおとり けいすけ)
1833-1911 享年79歳。幕臣。

柔和な美男子ながら、敏腕政治家として幕末に活躍。
朝廷、雄藩などと協力して外圧にあたる奇策を実施した。


渋沢 栄一 (しぶさわ えいいち)
1840-1931 享年92歳。幕臣。

柔和な美男子ながら、敏腕政治家として幕末に活躍。
朝廷、雄藩などと協力して外圧にあたる奇策を実施した。