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大鳥 圭介
おおとり けいすけ
1833-1911
享年79歳。

名称:純彰


赤穂藩士。
□兵庫赤穂の藩医の家に生まれる。
  藩校で漢学、医学を学び、21歳で
  大坂にある緒方洪庵の適塾(てきじ
  ゅく)に入った。
  緒方洪庵の適塾には、諸藩の英才
  が結集しており、蘭学、英語、兵学
  などの学習研究が盛んに行われて
  いた。

  当然、圭介もこれら諸学術を修得し、
  その非凡な才覚で頭角を現すと、塾
  頭となった。
  適塾の同窓には、大村益次郎(後に
  明治政府陸軍幹部)、福沢諭吉(後に
  慶応義塾創設)、橋本左内(開国論者)、
  武田斐三郎(あやさぶろう/五稜郭築
  城)など後に名を馳せる逸材ばかりが
  いた。

□圭介は、適塾内だけに留まることなく、
  江戸に遊学し、坪井忠益(ちゅうえき)
  の塾に入り、物理学、生物学を学ん
  でいる。
  さらに砲術の大家・江川太郎左衛門の
  私塾で蘭学の兵法を講義しながら、砲
  術を実践して修得した。
  この時の仲間には、黒田清隆(後に総
  理大臣)、大山巌(いわお/後に元帥)、
  伊藤祐麿(すけまろ/後に海軍中将)
  らがいた。

□圭介は、尽きることのない向学心と時
  流を見極める眼力をもって、将来、日
  本国が決して欠くことのできない兵法
  研究の考究に突き進んだ。
  洋式兵術の古典ともいうべき「築城典
  刊」「砲科新篇」「野戦要務」などの蘭
  書を翻訳し、日本が近代兵術へ開花
  する手助けを行った。

□圭介の兵術の博学振りを知った薩摩藩
  主・島津斉彬は、自分の中屋敷に台場
  を造り、圭介を招いて実戦用の大砲の
  設計・設置を依頼している。

□徳川慶喜が十五代将軍に就任すると、
  幕府内の構造改革の一環として、民間
  人からの有能な人材を登用する人事
  改革が実施され、渋谷栄一(理財※財
  産を有利に利用すること)、天野八郎(
  彰義隊)、近藤勇(新選組)、土方歳三
  (新選組)、大鳥圭介(兵法)らを直臣と
  した。

□1866年(慶応2年)圭介は34歳にして、
  幕府の開成所(後の東京帝国大学)で
  洋学を講義した。

□圭介は、歩兵差図役頭取に任ぜられる
  と、横浜の大田村練兵場でフランス陸
  軍式兵法を実地演習した。
  薩長側はイギリス式軍備を採用した点
  で、幕府側は対照的な軍備であったこ
  とになる。

□戊辰戦争では、関東・東北各地を転戦し
  、激しく官軍と激戦した。
  仙台藩、会津藩と次々と官軍に敗北し
  降伏すると大鳥は、仙台湾に入っていた
  榎本武揚が率いる旧幕府艦隊に乗船し
  一路、蝦夷地を目指した。
  蝦夷地の箱館へ入った大鳥たちは、
  箱館、五稜郭と次々と占拠し、共和制の
  独立国家を形成した。

□1869年(明治2年)、明治新政府が箱館に
  独立政府を樹立する旧幕府軍を討滅す
  べく軍隊を派兵してくると激しい戦争と
  なった。
  この箱館戦争で徹底抗戦を成した大鳥
  たちも再三の降伏勧告により、ついに
  明治政府に降伏した。

□その後、刑罰を喰らったがその後、赦さ
  れて、その多彩な才能を新政府で発揮
  することとなる。
  大蔵省・工部省などに出仕し、工部大学
  校長などを歴任した。
  その後、清国特命全権大使となり、外交
  政策に活躍する。