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勝 海舟  1823-1899
(かつ かいしゅう)
享年77歳。


幼名は麟太郎(りんたろう)。
名は慶邦、安芳、安房守。

□旗本小普請組(こぶしんぐみ)の出。
  海舟の家は幕府の御家人であったが、
  幕府の下役にもつけない家柄であり、
  生活は酷く貧しかったという。
  幼少の頃は、家が非常に貧しく、本が
  買えなかったため、海舟は、本の持ち
  主の家に通い詰、熱心に本を書き写し
  て勉強したという。
  
  身分の低い旗本だったが、佐久間象山
  や永井青崖(ながいせいがん)のもとで
  蘭学を熱心に勉強し、西洋知識を磨い
  ていった。

□1853年(嘉永6年)、黒船が来航すると
  アメリカの強引な開国要請に驚いた
  幕府は、庶民から幕臣まで広く、その
  対策案を求めた。
  勝海舟も意見書を幕府に提出し、この
  上書が認められ、徐々に取り立てられる
  ようになった。
  まさに蘭学で培った知識が出世へと身を
  結んだのであった。

□蘭学、兵学を学び、長崎海軍伝習所に
  入り、オランダ士官から三年間に渡って
  、航海術を学んだ。
  熱心な勉強家として知られるようになり
  、薩摩藩主・島津斉彬にもその逸材を
  認められた。
  斉彬は、幕府の老中に海舟を推挙し、
  おかげで海舟は、幕府の翻訳係という
  要職に就くことができ、出世街道へと
  乗った。

□1860年、幕府の遣米使節(けんべいし
  せつ)に従い、咸臨丸の艦長としてで
  太平洋を横断。

□帰国後、神戸海軍操練所を設立して、
  坂本龍馬などすぐれた人材を育てた。
  この時、海舟は尊王攘夷派の志士で
  あっても隔たりなく接した事で、尊王攘
  夷派にも知り合いの多い、数少ない
  幕臣となった。
  しかし、尊攘派や倒幕派など幕府にと
  って、危険分子を養う形となったため、
  幕府は、海軍操練所取り潰すこととなり
  、海舟も江戸に戻されることとなった。

  この時の勝海舟の考えは、海軍の強化
  が第一と考え、軍艦奉行並の要職に
  就いていた在任2年間のうちに軍艦を
  11隻も購入して、海軍増強を図って
  いる。
  海舟は幕臣や藩士だけで海防の危機を
  乗り越えることは不可能と考えていた。
  武士と町民の区別なくすぐれた人物を
  海軍に登用し、有志のものを広く集う
  ことが肝要と考えていた。
  幕命や藩命でイヤイヤ仕方なく、海防を
  するような弱腰の海軍では役に立たな
  いと見極めていた。
  

□1864年(元治元年)9月11日、海舟は、
  坂本龍馬の斡旋で大坂の宿にて西郷
  隆盛と会談する機会をもった。
  その時、西郷に会った感想を海舟は、
  後にこう述べている。
  「おれは、今までに天下で恐ろしいもの
  を二人見た」という。
  その二人とは横井小楠と西郷隆盛と
  いう。海舟は幕府要職に就いていた
  職柄と幕臣随一の有名を馳せただけ
  あって、全国からきた数多くの有志たち
  と面談していた。
  それだけに海舟は人を見る目が鋭く鍛
  え上げられていた。
  その海舟の評価が最も高かった人物が
  西郷隆盛であったというのだ。

  この時、西郷は島津久光に従って、薩摩
  兵を率いて上洛を果たしていた。
  第一次征長の役において、重要な役職
  に就いていた西郷は、海舟にいろいろと
  質問をした。
  外国艦隊が武力で条約勅許を求めて
  きた時の対策を西郷が海舟に訊ねる
  と、海舟は幕府の内情をあばき、「もは
  や、幕府に天下統治の技量はないから
  むしろ賢明な諸侯の会合をもって、この
  国難にあたるべし」と説いたという。

  この海舟の幕府無能説には、さすがの
  西郷も意表をつかれてビックリした。
  まだ、西郷にもその他、多くの志士たち
  の頭にも、討幕の考えはなかった。
  それを当の幕臣から不要な幕府論を
  展開されたのだから、驚くのもあたり
  前である。

  この会見後、西郷はすっかり勝海舟とい
  う男に惚れ込み、大久保利通に宛てた
  手紙に「英雄肌で、佐久間象山よりも
  より一層、有能であり、ひどく惚れ申し
  候」と書き知らせている。

□1866年(慶応4年)1月12日、元将軍・
  徳川慶喜に呼び出された海舟は、
  慶喜に意見を求められた。
  海舟は熱心に朝廷に対する謝罪恭順
  を説いた。
  幕府内では恭順派と抗戦派の二つの
  意見に分断し、議論紛糾を成していた。
  徹底抗戦を主張する小栗忠順らの強硬
  派に対して、海舟は熱心に抗戦の不利
  益を説いた。

  幕府の空中分解によって、江戸の町を
  戦火に巻き込むことはできないと考える
  慶喜は、海舟の意見を採用し、朝廷へ
  の謝罪恭順の工作を行った。
  松平春嶽やフランス公使・ロッシュを介し
  て、調停工作を試みたが、全て失敗に
  喫すと、2月12日、慶喜は恭順謹慎を
  行うべく上野の寛永寺にこもった。

  2月25日に海舟は、軍事取扱となり、
  事実上の幕府最高責任者となった。

  3月6日、海舟は鉄壁の意志を貫ける
  山岡鉄太郎(鉄舟)を駿府に居る西郷
  隆盛のもとに使者として遣わした。
  山岡の気骨さで西郷との会見を実現
  できると海舟は筋を読んだのだ。
  その筋読みは的中した。

  3月13日、14日の両日に江戸の薩摩
  屋敷にて海舟と西郷の会見が持た
  れた。
  この会談で、海舟は西郷が提示した
  降伏条件の8割方を幕府が認める
  ことを示し、残りの部分について弱冠
  の修正を提案。
  慶喜公を備前藩お預けという処置から
  水戸藩で謹慎するという処置へ修正
  することを要求し、西郷はこれを了承
  した。
  ついで、治安維持を理由に武器の一部
  保有を認めさせ、交渉は成立の運び
  となった。

  この歴史的な和平交渉成立の影には
  、海舟の周到な根回しがあった。
  実は、海舟は交渉が行われる数日も
  前から薩摩藩と仲のよいイギリス公使・
  パークスに手を廻して、戦争回避の
  裏工作を行っていた。
  パークスは、欧米列強の代表として、
  西郷に意見を述べ、それまで日本の
  首都同然だった江戸を戦火に巻き込む
  ことに国際法をかざして非難し、江戸
  の戦火回避を新政府側に要請した。

  欧米列強からの非難を浴びることを
  極力避けたい新政府は、江戸戦火
  回避の方策を探るようになっていた。

  また、江戸100万都市の経済力や
  機能をそのまま無傷で手に入れたい
  と思う者も新政府の中に数多くいた
  ことは確かであった。
  西郷も歴史的なけじめをつけるより
  も江戸の利便を日本の近代化に有益
  に活用すべきだと考えていた。
  海舟には、新政府を運営する志士たち
  のこの心内をよく察知していた。

  一触即発の雰囲気さえ取り除ければ、
  新政府も旧幕府も手を取り合って、
  新生日本のために働く気概を強く持っ
  ていると海舟は読んでいたのだ。
  そのため、歴史的な和平交渉は、新
  政府の顔がある程度立つようにして、
  行われ、新政府側がけじめをつけやす
  くするよう海舟は根回しをしたのだった。

  欧米列強からの批判や江戸100万都市
  の利便性を新政府側にちらつかせる
  ことで、新政府側にも江戸無血開城に
  大きな意義があると思わせることが
  大事だったのだ。
  この根回しをしっかりと行った海舟の
  交渉駆け引きの巧みさは抜群であった
  といえるだろう。

□明治政府で参議兼海軍卿、元老院議官
  を経て、伯爵、枢密顧問官となる。

□福沢諭吉の著書<痩我慢の説>で非難
  されるも、遠大な視野と豊潤な知識をも
  って、動乱の日本を正道に導いた偉人
  であった。

□余生を著述に送り、<海軍歴史>
  <陸軍歴史><吹塵録>
  <開国起源>などがある。中でも彼の
  談話を筆記した<氷川清話>は有名。





冷静かつ先見力のよさは
、幕臣随一を誇った。
海舟が曰く、”勇気と胆力
は、坐禅と稽古によって養
われた”という。30歳に成
るまで海舟は、朝晩かか
さず、坐禅と稽古に励んだ
という。
冬でも足袋(たび)を履か
ずに着物一枚で過ごす
ほど、頑健な体を持って
いた。
”ちょっと船を見に行ってく
る”と家を出たつもりが、
船で渡米までしてしまった
海舟だが、このときの航路
は嵐に何度も見舞われた
。しかし、海舟は、一切、
船酔いしなかったという。
同船した福沢諭吉など、
酷い船酔いに悩まされ、
ほとんど起き上がることが
できず、船底でへばってい
たという。