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山岡 鉄舟  1836-1888
(やまおか てっしゅう)
享年53歳。


幕臣にして剣客。
通称、鉄太郎。

□千葉周作の門下生。剣術を修める。

□幕府講武所で剣術の指南役を務める。

□1868年、戊辰戦争の際、勝海舟の使
  者として駿府に赴き、江戸を開城させ
  るための会談への道を開いた。

  この時、鉄舟は新政府軍の検問を通り
  抜ける際に「徳川家の家来、山岡鉄太
  郎が、西郷参謀に面会しようと来た。
  首を討ちたければ、討て!」と大喝して
  検問の軍人が度肝を抜かれている間
  にスーッと通っていったという。
  たいした度胸振りを見せて、気骨さを
  存分に披露して、西郷との面会を果た
  した。

  さて、西郷に面会した鉄舟は、慶喜公へ
  の寛大な処置を願うとともに、3月15日と
  決定された江戸城総攻撃の前に勝海舟
  と会見することを、西郷に約束させた。

  この時、西郷が示した徳川家に対する
  処分案は、次の通りである。

  一、慶喜の備前藩お預け
  一、江戸城の明け渡し
  一、武器の引渡し
  一、慶喜を支援した藩への処分

  という内容であった。

  これを読んだ鉄舟は、この四つのうち三
  つの約定は飲めるという。
  だが、一番最初に書かれている慶喜公
  を備前藩へ預けるという処置だけは、絶
  対に飲むことができないという。

  まだ、幕府重役へ見せもしないうちから
  西郷が定めた約定を突っ返すとは、どう
  いう使者か?と西郷は憤った。
  しかし、鉄舟は頑として西郷の要求を受
  け付けない。

  両者反発し合う、緊張した時が一瞬、流
  れた後、鉄舟はこう切り出した。
  「西郷さん。考えても見てください。もしも
  、あなたが幕臣であったとしたら、この条
  件を飲みますか?」鉄舟の鋭い切り替え
  しに西郷は応えに窮した。
  たしかに西郷にも応えが詰まる条件で
  あった。もしも、島津斉彬の身柄を差し
  出せと言われたならば、西郷はどうした
  であろうか。
  必ず断固拒否し、命に代えても斉彬公を
  守ったに違いない。
  鉄舟はその君臣の道を違わぬ忠義心厚
  い忠臣の行動を守っているのだ。
  西郷は(さすが海舟どのだ。揺るぎ行く
  幕府にあっても、忠義心に迷いのない者
  を使者に立ててくるとは!)と心内に海
  舟の凄さとここまでして慕われる慶喜公
  の人徳力に舌を巻いて思った。

  「ならば、よか。この事は海舟さんと会っ
  たときに納得いくよう改正しましょう。」西
  郷は鉄舟に対して歩む応えを出した。
  鉄舟も主張が呑めぬなら刺し違えてでも
  という殺気立った気迫から一変し、西郷
  の寛大さに感謝の意を述べた。

  歴史に残る偉大な使者の役目を果たし
  た鉄舟は、海舟へ会談交渉が設けられ
  ることを報告した。
  鉄舟の気骨で正しい判断のおかげで、
  海舟は西郷との交渉をやりやすくなった
  ことは言うまでもない。

  鉄舟の決死の覚悟は、そのまま幕臣た
  ちの決死さを物語るものであり、西郷も
  その気迫はただならぬものと察知し、早
  計に江戸を火の海にすべきでないことを
  悟らせる効果を充分に持っていた。

  西郷の察知の速さは、維新屈指のもの
  を誇ることも手伝って、江戸城無血開城
  の方向で調整が進むことになった。
  
  結果的に8割方、西郷の示した降伏条
  件を幕府側が呑むことで合意した海舟で
  あったが慶喜の備前藩お預けから水戸
  藩での謹慎処分へと修正が成され、武
  器の一部保有も治安維持という理由で
  認められることと成った。

  こうして、鉄舟の決死の使者貫徹が放っ
  た鋭い意志は、幕府を軽んじ、ないがし
  ろにする新政府側に正しい観点を悟ら
  せるきっかけを作った。
  江戸100万都市を戦火に包ませること
  の無益と幕臣とて必死の人の子である
  ということを無骨な新政府軍将兵にわか
  らせたことは、日本歴史に残る和平の象
  徴といえよう。

  江戸100万都市の戦火回避がもたらし
  た功績は非常に高い。
  その後、明治新政府が首都としてその
  都市機能を充分に活かして、素早い近
  代化を図れたのであるから、江戸無血
  開城サマサマである。

□維新後、明治天皇の侍従となり、明治天
  皇が成人するまでの間、身辺警護の大
  役を果たす。

□勝海舟、高橋泥舟とともに幕末の三舟
  と賞賛された。




 剣術一筋に勤勉し、幕末屈指の剣豪となる。
 幕府の使者として、西郷隆盛との交渉を見事、勤め上げ、江戸総攻撃阻止に一役買った。
 明治期には、明治天皇の侍従を勤め上げた。