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渋沢 栄一
しぶさわ えいいち
1840-1931
享年92歳。
名称:栄二郎、篤太夫、号は青淵
身分:幕臣
□武蔵血洗島の豪農で藍玉商人・渋沢
市郎右衛門美雅の子として生まれる。
若き頃から武術を磨き、尊王攘夷の思
想に傾倒し、横浜外国人居留地焼き打
ち計画を同志とともに立てたが、近畿で
起きた天誅組の兵乱が失敗に終る報せ
を受けると中止を成した。
□その後、渋沢は京都に上り、尊王攘夷の
争乱を見てまわった。江戸で一橋家の
用人・平岡円四郎と面識を持っていたこ
とを頼りに京都に来ていた平岡を訪
ねた。
当時、一橋慶喜は京都にいて、禁裏御
守衛総督を務めており、人材募集を成し
ていた。
平岡の口利きで一橋家に仕えることに
なった渋沢は、奥口番4石取りとなる。
□この頃、渋沢は平岡の使いで薩摩藩屋
敷に赴き、西郷隆盛と会っている。
その後、武術に秀でた人物を選抜する
職務を命ぜられ、関東に赴いている。
この間に上司の平岡が水戸浪士に暗殺
されてしまう。
渋沢は平岡の後任となった黒川弥兵衛
に信任され、次第に昇進を果たしてい
った。
□将軍・徳川家茂が没したため、渋沢の主
君・慶喜が将軍職に就くと渋沢も大いに
出世を果たす。
陸軍奉行支配調役へと大身し、戊辰戦
争勃発の前年には、渋沢に大きな転機
が訪れる。
幕府はフランスで開かれる万国大博覧
会に日本の国産物を出品することとなり
、渋沢はその使節団に同行することとな
ったのである。
そこで、欧州の進んだ産業文明を見聞し
た渋沢は、大いに興業への関心を強
めた。
□帰国後、幕府は倒壊しており、徳川家は
静岡藩70万石に成り下がっていた。
渋沢はその静岡藩から勘定組頭を命ぜ
られるがこれを渋沢は断り、新しい興業
の世界へと身を投じる。
日本の株式会社の草分けとなる合本商
社「商法会所」を創設する。
その後、新政府の大蔵大丞、紙幣頭の
職に就くが下野して本格的な財界活動
を始める。
□第一国立銀行(第一銀行)の創立をはじ
め、渋沢が起こした会社は500余にも上
った。
近代日本の興業促進に多大な功績を残
した渋沢は、明治の財界人の中で唯一
、子爵を授けられている。
あの三井、三菱の総帥である三井八郎
右衛門や岩崎弥太郎でさえ子爵の一段
下にある男爵止まりであったことからす
ると渋沢の功績がいかほど高評を博し
ていたかがわかる。
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近代日本建設のために日本産業育成に奔走した渋沢は、明治財界人として唯一の子爵を授かり、その偉業・功績を高く評価された。
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