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伊庭 八郎
いば はちろう
1843-1869
享年27歳。

名称:八郎治、秀頴(ひでさと)
身分:幕臣

□心形刀流(しんぎょうとうりゅう)宗家に
  生まれる。心形刀流は、当時、江戸四
  大道場の一つに数えられ、隆盛を極め
  ていた。
  一子相伝ではなく、最優秀の弟子を継
  承者としたため、長らく伝承が継続され
  てきた。
  継承者となったものは、みな伊庭姓を名
  乗ることとなっていた。

  八郎の父・伊庭軍兵衛秀業(いばぐんべ
  えひでなり)は心形刀流八代目で当然、
  先代の養子であった。

  家伝の奥義を修めるべく厳しい修業を成
  した八郎であったが、幼少の頃より、剣
  術熱心ではなく、学問好きの臆病者と評
  されていた。
  その後、青年に成るころに、宮本武蔵の
  談話を聞き、これに感銘した八郎は以後
  、剣術修業に励むようになったという。

  その甲斐あって、”伊庭の小天狗”と剣
  の腕を高評されるまでになり、当時随一
  の剣客と高評されていた山岡鉄舟と互
  角の稽古を張ったという。

  八郎は幼少のころは、剣術よりも漢学や
  蘭学など学問に興味を持ち、剣術修行
  を始めたのは遅かったという。
  しかし、剣術を始めると天賦の才を
  発揮し、頭角を現すと
  ”伊庭の小天狗”、”伊庭の麒麟児”
  など異名を取った。

□伊庭家は徳川御家人の家柄で、幕末動
  乱に揺れる幕府にあっても、八郎は熱
  烈な佐幕の姿勢を貫いた。

  1864年、八郎は幕府に大御番衆に
  登用され、すぐに奥詰(将軍の親衛隊)
  となった。
  幕府師弟の武術指導が目的で設けら
  れた講武所で八郎は、教授方を
  務めた。

  1864年(元治元年)に奥詰となり、将軍
  の身辺警護という大任に就く。
  京都での警護任務の後、戊辰戦争がは
  じまると幕府の遊撃隊に入隊し、各地を
  転戦した。

□上野にて彰義隊が戦争を始めると、
  これに呼応し、江戸に向かう新政府軍
  の江戸入りを阻止すべく、箱根の関所
  を占拠しようとした。

  だが、小田原藩と戦闘となり、一度は
  和睦するも、再び戦闘となる。
  小田原藩兵と箱根山崎で戦いとなり、
  この戦闘で八郎は三枚橋で左手首を
  皮一枚残して、斬られる戦傷を負った。

  八郎ら負傷兵を残して、遊撃隊は奥州
  へと向かった。
  八郎らは戦傷治療を受けた後、榎本
  艦隊に搭乗し、蝦夷地へと向かった。


  箱根到着後、旧幕府軍の役職選挙に
  て、八郎は歩兵頭並、遊撃隊隊長と
  なった。
  隻腕の剣士として、旧幕府軍を率いて
  徹底抗戦した八郎であったが、木古内
  の戦いにて重傷を負う。
  箱館病院にて治療を受けるも救命の術
  なく、五稜郭の開城前夜に榎本武揚より
  拝命したモルヒネを飲み干し、安楽死
  した。




 幕臣屈指の剣豪として、頼れる陣頭指揮を執ったが、さすがに劣勢の挽回は難しかった。