大鳥 圭介
おおとり けいすけ



赤穂藩士。
□兵庫赤穂の藩医の家に生まれる。
  藩校で漢学、医学を学び、21歳で
  大坂にある緒方洪庵の適塾(てきじ
  ゅく)に入った。
  緒方洪庵の適塾には、諸藩の英才
  が結集しており、蘭学、英語、兵学
  などの学習研究が盛んに行われて
  いた。

  当然、圭介もこれら諸学術を修得し、
  その非凡な才覚で頭角を現すと、塾
  頭となった。
  適塾の同窓には、大村益次郎(後に
  明治政府陸軍幹部)、福沢諭吉(後に
  慶応義塾創設)、橋本左内(開国論者)、
  武田斐三郎(あやさぶろう/五稜郭築
  城)など後に名を馳せる逸材ばかりが
  いた。

□圭介は、適塾内だけに留まることなく、
  江戸に遊学し、坪井忠益(ちゅうえき)
  の塾に入り、物理学、生物学を学ん
  でいる。
  さらに砲術の大家・江川太郎左衛門の
  私塾で蘭学の兵法を講義しながら、砲
  術を実践して修得した。
  この時の仲間には、黒田清隆(後に総
  理大臣)、大山巌(いわお/後に元帥)、
  伊藤祐麿(すけまろ/後に海軍中将)
  らがいた。

□圭介は、尽きることのない向学心と時
  流を見極める眼力をもって、将来、日
  本国が決して欠くことのできない兵法
  研究の考究に突き進んだ。
  洋式兵術の古典ともいうべき「築城典
  刊」「砲科新篇」「野戦要務」などの蘭
  書を翻訳し、日本が近代兵術へ開花
  する手助けを行った。

□圭介の兵術の博学振りを知った薩摩藩
  主・島津斉彬は、自分の中屋敷に台場
  を造り、圭介を招いて実戦用の大砲の
  設計・設置を依頼している。

□徳川慶喜が十五代将軍に就任すると、
  幕府内の構造改革の一環として、民間
  人からの有能な人材を登用する人事
  改革が実施され、渋谷栄一(理財※財
  産を有利に利用すること)、天野八郎(
  彰義隊)、近藤勇(新選組)、土方歳三
  (新選組)、大鳥圭介(兵法)らを直臣と
  した。

□1866年(慶応2年)圭介は34歳にして、
  幕府の開成所(後の東京帝国大学)で
  洋学を講義した。

□圭介は、歩兵差図役頭取に任ぜられる
  と、横浜の大田村練兵場でフランス陸
  軍式兵法を実地演習した。
  薩長側はイギリス式軍備を採用した点
  で、幕府側は対照的な軍備であったこ
  とになる。