志士たち一覧へ





徳川 斉昭  1800-1860
(とくがわ なりあき)
享年61歳。


水戸藩主・徳川治紀の三男。
通称:虎三郎、敬三郎
諱:斉昭
字:叔寛、子信
号:景山、潜竜閣
諡:烈公


□1829年(文政12年)、水戸藩内では、
  家督争いが紛糾していた。
  藩政改革を推進する藤田東湖や会沢
  正志斉が擁立する徳川斉昭と保守派
  派閥が擁立する徳川11代目将軍・徳
  川家斉の子・清水恒之丞(しみずつね
  のじょう)の二派に分かれて激しい抗争
  が起きた。

  大モメにモメた水戸藩継嗣問題は、よ
  うやく斉昭で決まった。

  水戸藩九代目藩主の座についた斉昭
  は、東湖ら有能な人材を登用し、藩政
  改革の乗り出した。
  保守派などの門閥の抵抗を押し切って
  、天保の藩政改革を断行。
  藩の兵制改革などに着手し、天皇を敬
  い攘夷することを主張する。

  斉昭が掲げる尊王攘夷の思想貫徹を
  行うために海防の充実を図り、洋式兵
  制の採用と反射炉の建設で大砲、弾
  薬の鋳造を図った。

  また、大型船の建造などを行い海軍力
  の強化と海防断行の基盤を築いて
  いった。

  藩政の改革の原動力が必要として、藩
  内の全ての田畑の検地を実施し、藩財
  政の立て直しも図った。

  藩校・弘道館を設立し、尊王思想の徹底
  教育を藩士に課した。

  その他にも明治新政府の先駆けともな
  る、神仏分離、廃仏毀釈(はいぶつきし
  ゃく)を断行し、維新の思想的バックボー
  ンとなる。
  ※バックボーン[backbone]とは、物事の
    基幹となる部分を指す。
    人の生き方や信条などを貫いて揺
    るがない部分を意味する。

  水戸学が”維新の志士たちの思想的
  バックボーン”といわれる由縁は、徹底
  した斉昭の思想が水戸藩内、隅々に
  まで行き渡っていたことに重要な点が
  ある。


□1839年(天保10年)、斉昭は藩政改革
  が一段落ついたことで、幕府への意
  見書を提出。
  海防にのんびり構える幕府に一喝する
  目的で提出した意見書には、「夷狄(い
  てき)は邪宗門(じゃしゅうもん※キリスト
  教のこと)を広めて我が神国の人の心を
  たぶらかし、交易を行って、神国の富を
  掠め取り、人民を疲弊させ、最後には兵
  威をもって、我が国を奪う算段である」と
  欧米列強の卑劣さを訴えている。

□1844年(弘化元年)、思想的藩政改革を
  推し進めた斉昭は、幕府に危険思想者
  と映り、謹慎命令を受けてしまう。
  斉昭の隠居によって、藩政は保守派の
  派閥が牛耳ることになり、藤田東湖ら改
  革派は藩政から離れた。

□隠居しても、元気な斉昭は、強硬な攘夷
  論者として、海防の危機を幕府や諸藩に
  唱え続けた。
  その甲斐あってか、ペリー来航にあたっ
  て、欧米列強の強引な姿勢に驚いた幕
  府は、強硬論を展開する斉昭を幕政参
  与に登用して、海防の危機を脱しようと
  図った。

  ますます意気軒昂にして、尊王攘夷の
  発言を強めた斉昭は、再び藤田東湖を
  重用し、藩政改革と幕政改革の二局面
  同時遂行を行った。
  諸藩の有志たちがこぞって、話題沸騰さ
  せる藤田東湖は、尊王攘夷の志士たち
  の憧れの的となっていた。数多くの有志
  たちが彼との面談を望んだ。

  横井小楠、梅田雲浜、西郷隆盛、佐久
  間象山ら多くの志士たちが東湖と面談し
  ている。

□1853年(嘉永6年)、老中・阿部正弘は、
  斉昭を幕府参与の職に就任させ、幕府
  の保守派の対抗処置を図った。
  強硬な攘夷を唱える斉昭によって、幕府
  の政策を海防強化一色に染める算段で
  あったが、斉昭の強気の主張も机上の
  空論であることが発覚し、空鉄砲に
  終る。
  斉昭自身も黒船が日本をどやしつけて
  きたことへの報復処置をまったく考えて
  いなかった。
  具体的な対策を持ち合わせていない斉
  昭に幕府の保守派は高笑いのタネにす
  る始末。

  海防力が未だ身についていない日本で
  は、攘夷の強硬論も机上の空論でしか
  なかった。
  そのため、斉昭は海事・海防の強化を図
  ることを諸藩に唱えることとなる。

□それでも斉昭は、幕政に参画する権勢を
  活かして、藩の実権を取り戻し、再び積
  極的な藩政改革を推進。
  安政の大地震で藤田東湖を失うも、安
  政3年には、保守派門閥の処刑を断行し
  、藩内にある反対分子を一掃した。

□一方で、斉昭は幕府の頭目には、英断の
  できる俊逸な人物を据えるべきと考える
  ようになり、自ら生んだ実子の一橋慶喜
  に次期将軍候補として擁立運動を展開
  した。
  密かに朝廷内に工作行動を取ったが、
  未だ幕府権勢を恐れるあまり、朝廷は軽
  率な同調を見送っている。
  朝廷工作が失敗に終ると、今度は条約
  勅許問題で再び、朝廷工作を推し進め
  るなど、休む暇のない政策推進をする。

  しかし、朝廷への政治的アプローチは逆
  に朝廷内の政治感心を引き起こさせ、眠
  れる獅子を起こしてしまう。
  天皇や公卿たちの政治意欲が目覚め、
  政治遂行が混乱をきたすようになったの
  である。

  朝廷内に政治風を吹かせてしまった斉
  昭を心良く思わない幕府は、斉昭の主
  張を段々と遠ざけていくようになる。

□そうこうしているうちに斉昭にとって、最
  大の強敵が幕府内に現れた。
  幕府大老の井伊直弼である
  直弼は日米修好通商条約を独断で締結
  し、将軍継嗣問題も南紀派が掲げる徳
  川慶福(※のちの徳川家茂)に定めて、
  一橋派が掲げる一橋慶喜の将軍就任を
  阻止。
  この大老・井伊直弼の横暴を激しく責め
  た斉昭は、江戸城に怒鳴り込んだ。が、
  逆に謹慎処分を受けてしまう。

  その後、巻き返しを図り、朝廷工作を行
  い、処分撤回などの勅諚(ちょくじょう)を
  得ることに成功する。
  ところが、この勅諚が、水戸藩内の混乱
  に拍車をかけてしまう。

  勅諚はこれまで幕府に対して下されるも
  のであった。それが、今回は幕府と水戸
  藩の二箇所に同時に出されてしまい、お
  まけに水戸藩へは、これは重用な問題
  だから他藩へも伝えるようにという添え
  書きまでしてあった。
  他藩への通達を幕府を通さずに行うこと
  は当時としては考えられないことで、ま
  るで幕府をないがしろにする行為に等し
  かった。

  このような幕府を愚弄する勅諚を受け取
  ってしまった水戸藩はその処置に苦慮す
  る。
  怒る幕府は勅諚を朝廷に返還しろと圧
  力をかけてくる。

  仕舞いには、斉昭を蟄居(ちっきょ)させ
  、水戸藩家老・安島帯刀らを処刑すると
  いう苛酷な処置を幕府は断行。
  この断行を推進した大老の井伊直弼を
  水戸藩士はひどく恨むようになった。

  安政の大弾圧を受けた水戸藩は、勅諚
  返還要請を盛んにいう幕府に対して、ど
  うすべきか意見が分かれ、大混乱に陥
  った。
  藩政は改革派が握っていたが、幕府の
  命令に従って、勅諚返還を主張した会沢
  正志斉らの鎮派と、断固拒否しようとい
  う武田耕曇斎らの激派に分かれ藩論は
  、真っ二つに分かれた。

  さらに水戸藩の過激派集団の抑えとして
  、水戸藩の保守派の門閥を幕府が後押
  ししたため、水戸藩内は火に油を注ぐよ
  うにして日増しに混乱の度合いを強めて
  いった。

  激派が水戸街道の要所・長岡宿に集合
  して、気勢を上げると驚いた水戸藩は、
  これを武力鎮圧しようとして、さらに藩内
  は大抗争劇が展開されてしまった。

  こうしたゴタゴタが長期にわたって続い
  ているなかで、万延元年3月、桜田門外
  の変が勃発し、勅諚返還問題はうやむ
  やになってしまった。

  勅諚返還問題どころの騒ぎではない。
  昨日まで水戸藩士だったものが、脱藩し
  て、幕府の大老を道端で斬り刻んだとあ
  っては、”幕府のご意見番”と謳われた
  水戸藩の立つ瀬がない。
  面目丸つぶれとなった水戸藩にさらに追
  い討ちがかかる。
  維新の志士たちを叱咤激励した活眼の
  功績者徳川斉昭公が、憂国の想いを残
  して、病没してしまったのだ。
  意気頑健な斉昭公が、気落ちの余りに
  没したことは紛れもない事実であり、水
  戸藩士の心を深く傷つけてしまった。

  藩内の統率は完全に空中分解し、藩権
  は鎮派、激派、保守派の間を行ったり来
  たりした。
  派閥争いが年中行事と化した水戸藩で
  は、この抗争に嫌気が差した藩士たちに
  よって、より過激な攘夷を唱え、徒党を
  組んで狂乱する
  ものも現れ、藩内に安静の日々はいっこ
  うに訪れることがなかった。

  こうして斉昭が生んだ幕末を激昂する尊
  王攘夷の志は、水戸藩内では常に空回
  りに終るという、むなしい展開劇が起き
  てしまった。
  しかし、斉昭の大志は、西南雄藩にとっ
  て、大きな勇気を与えてくれた。
  間違った政策に対しては、たとえ天下之
  幕府と言えども、批判し、国政に大いに
  加わるべし、という大義名分の気概を根
  付かせてくれたからだ。
  その意味で、斉昭の国政に対する憂い
  の心はしっかりと維新の志士たちに受け
  継がれていったのであり、斉昭の功績は
  多大なものがあったというべきであろう。




 海防の危機を強く唱え、幕政改革を目指した。だが、井伊大老の反撃に遭い、藩内分裂を巻き起こす結果となった。