弘道館を設立するなどして、すぐれた人材の育成に尽力し、
藩政改革を推し進めた。外圧への対応を幕府に上奏した。

病体を押して、幕政と藩政の二面改革に尽力した。
藩内の派閥争いに苦闘する。

藩主・斉昭の側近として活躍。大老・井伊直弼に反発し、
処断された。

天狗党の首魁と成り、過激に世直しの挙兵を起こした。
京都への上洛を目指したが、途中で力尽き、処断された。

佐幕派と成り、天狗党と対立。仇敵・天狗党の弾圧に
成功し、幕権強化を唱えたが、戊辰戦争で敗退した。

保守派の筆頭を努め、改革派の藤田東湖らと対立した。
徳川斉昭を攻撃したが後に処断された。

藤田東湖らと共に徳川斉昭を水戸藩主に擁立。
弘道館の教授を勤め、藩思想に多大な影響を与えた。

父・藤田東湖の意志を継ぎ、過激に改革を推進した。
天狗党を結成して藩と戦ったが敗北した。

安政の大獄で藩主・徳川斉昭が弾圧されるとこれに反発。
大老・井伊直弼を薩摩藩士らと共に襲撃した。

父・武田耕雲斎と共に天狗党を率いて、上洛を目指した。
途中、捕らわれ禁固の身となる。その後、帰藩を果たした。


すぐれた先見力で内政、外交に活躍し、尊王攘夷派の志士た
ちから厚い信望を集めた。安政の大地震で非業の圧死す。

徳川 斉昭 (とくがわ なりあき)
1800-1860 享年61歳。水戸藩主。

徳川 慶篤 (とくがわ よしあつ)
1832-1868 享年37歳。水戸藩主。

安島 帯刀 (あじま たてわき)
水戸藩家老。

武田 耕雲斎 (たけだ こううんさい)
1803-1865 享年63歳。水戸藩重臣。

市川 三左衛門 (いちかわ さんざえもん)
1818-1869 享年52歳。水戸藩重臣。

結城 寅寿 (ゆうき とらじゅ)
水戸藩重臣。

会沢 正志斉 (あいざわ せいしさい)
1782-1863 享年82歳。水戸藩重臣。

藤田 小四郎 (ふじた こしろう)
水戸藩士。

高橋 多一郎 (たかはし たいちろう)
1814-1860 享年47歳。水戸藩士。

武田 金次郎 (たけだ きんじろう)
水戸藩士。

藤田 東湖 (ふじた とうこ)
1806-1855 享年50歳。水戸藩重臣。

水戸藩 みとはん
≪場所≫ 水戸市


 水戸藩徳川家の藩祖は、徳川家康の十一男・徳川頼房
である。頼房は1609年(慶長14年)水戸へ入部し、石高
20万石を領した。
 その後、二代藩主に徳川光圀が出て、水戸学は隆興
するようになる。光圀によって「大日本史」が編纂される
と、水戸学は日本の歴史をよくよく考究して、尊皇思想を
展開した。
 これが、後に幕末で徳川斉昭が提唱した尊攘思想を
生み出し、幕末期に一世を風靡した志士たちの共通理念
となったのである。

 徳川斉昭は、海防の急務を幕府に訴え、ペリー来航後
は幕府要職に就き、海防政策に従事したが、武備の整備
以外に攘夷は成せず。時期尚早とあざけりを喰らう。
 その後、井伊大老の出現によって、幕政改革を目指す
斉昭の前に大きな支障を来たした。井伊直弼は、将軍継嗣
問題を南紀派に決め、条約勅許を得ないまま、無断で条約
に調印してしまう。

 これに激怒した斉昭は、同志の大名たちとともに無理に
江戸城へ登城し、井伊大老を詰問しようとした。しかし、
この憤激行動が斉昭を政局の表舞台から失脚させてしま
った。井伊大老の安政の大獄が断行され、多くの同志が
非業の死や不遇を強いられたのである。
 隠居した斉昭は、気丈の性格も失せて、病気がちになる
と水戸藩内では派閥争いが激化し、多くの優秀な人材が
抗争によって、粛正されてしまう悲劇を向かえる。
 斉昭は憂国の思いを残して、病没すると水戸藩の内乱は
収拾のつかない域に達し、藩政は完全に統制が取れなく
なって、空中分解した。

 尊攘派の改革一派と佐幕派の保守一派が抗争を巻き起
こし、これに更なる過激派尊攘の藩士たちが結束した天狗
党が成り、水戸藩の抗争劇は、過熱を増していった。
 天狗党は暴走を開始し、ついには幕府による討伐部隊
までも編成されて、討伐戦が展開される。完全に水戸藩は
”天下之ご意見番”の地位から失墜し、幕末動乱の表舞台
から姿を消すことと成る。
 天狗党の悲劇によって、水戸藩は完全に力尽き、余力を
持って、ただ佐幕の姿勢を見せるだけに留まり、戊辰戦争
の際に元将軍の徳川慶喜を迎え入れて、明治維新を迎え
ている。