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武田 耕雲斎  1803-1865
(たけだ こううんさい)
享年63歳。


水戸藩士。
通称:彦太郎、彦九郎、修理
諱:正生
字:伯道
号:耕雲斎、如雲


□武田耕雲斎は、跡部正続の長男として
  生まれ、宗家の正房の養子となった。
  武田の姓は、高祖にちなんで名乗った
  とされている。

□耕雲斎は、藩政改革を推進し、尊攘を
  実施しようと活動した。彼の活動は、
  藩士や領民たちに広く指示され、
  水戸藩主・徳川斉昭からもあつい信頼
  を得ていた。

□1829年(文政12年)に水戸藩で起きた
  継嗣問題では、耕雲斎は徳川斉昭を
  擁立し、運動を展開した。

□斉昭が藩主となると、耕雲斎は藩政改革
  に携わるようになり、水戸藩でも大きな
  影響力を持つようになった。

□1844年(天保15年)、斉昭が幕府の命令
  で謹慎処分となると、耕雲斎も蟄居処分
  となり、藩政から失脚した。
  その後、斉昭が処分を許され、幕政に
  参与すると、耕雲斎もそれにともない、
  藩政への復帰を果たした。

□1858年(安政6年)に、朝廷から水戸藩へ降下された幕府非難の「戊午の密勅」返納問題で、耕雲斎は返還しない方針を唱え、返納すべきと説いた会沢正志斎と対立した。

□1864年(元治元年)3月、天狗党の乱では、領内鎮撫に尽力するも、幕府から首謀者と見なされ、隠居謹慎処分が下されてしまう。
  その後、水戸藩内では、保守門閥派が諸生党を組織し、天狗党追討を始めた。
  天狗党は、尊攘派志士たちを引き連れて、南上し、下総小金の東漸寺に拠った。

□同年8月、耕雲斎は、水戸藩主・徳川慶篤の目代として、領内鎮撫に下向する水戸支藩の宍戸藩主・松平頼徳に従うも、諸生党の入場拒否にあい、交戦となる。

□同年11月、耕雲斎は、筑波の天狗党に合流し、尽忠報国の至誠を天皇に申し入れようと一路、京都を目指した。

□同年12月、越前まで進軍するも、飢えと寒さに苦しみ、ついには加賀藩へと降伏。
身柄を拘束された耕雲斎は、同志たちとともにニシン蔵に拘禁された。

□翌年の2月に同志353名とともに敦賀にて、罪人として斬首された。



 徳川斉昭の擁立に奔走。斉昭が藩主に就くと、以後は藩政改革に携わった。
 井伊大老の横暴が進むと憤激し、天狗党の乱にて首領格を勤め、幕政改革を望んだが、果たせず、同士ともども斬首された。