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藤田 小四郎
ふじた こしろう

諱:信
字:子立
号:東海

□水戸藩士。
  藤田東湖の四男。
  庶子ではあったが、多くの兄弟の中で
  最も父・東湖の英才を受け継いでいた
  と言われ、明敏勇躍する才知に富み、
  学問、書画に精通した。

□水戸藩内が二分し、対立した「戊午の
  密勅」返納問題では、小四郎は返納
  反対を唱え、強硬な尊攘派として運動
  した。

□1863年(文久3年)2月、水戸藩主・徳川
  慶篤が京都へと赴くと、小四郎はこれに
  従い、上洛を果たす。
  在京していた長州藩の桂小五郎や久坂
  玄瑞ら尊攘派志士たちと交友し、尊攘
  の信念をさらに強めたとされる。

  同年5月、小四郎は一橋慶喜に随行し
  て江戸へ戻る。その後も長州藩、鳥取
  藩の有志たちと連絡を取り合い、国事
  について、熱く論じ合った。
  この時、小四郎は尊攘挙兵計画を立ち
  上げ、武田耕雲斎を総帥に迎えようと
  するが、この時は、軽挙妄動をいさめ
  られ、思いとどまっている。

□その後も、小四郎は同志との糾合をは
  かり、1864年(元治元年)3月に尊攘
  の先鋒となるべく、水戸町奉行の田丸
  稲之衛門を総大将に迎えて、筑波山
  にて同志たちとともに挙兵してしまう。

□挙兵した小四郎たちは、日光東照宮へ
  攘夷祈願の参詣を済まし、下野大平山
  に本拠を構えた。
  その後、筑波山へと立ち戻り、同年7月
  には、下妻で水戸藩の諸生党と幕府軍
  に遭遇し、決戦となる。

  水戸城を奪取しようと計画を立てた小四
  郎率いる天狗党ではあったが、水戸城
  守兵と城外で激戦を繰り広げることと
  なった。

□水戸城奪取は、成らず、小四郎は、同年
  11月に武田耕雲斎らとともに京都へ
  目指して進発。
  行く先々に待ちかまえる幕府軍と諸藩軍
  と戦いながら、西上し、北陸街道を行軍
  した。
  しかし、同年12月、越前まで行軍した
  天狗党であったが、飢えと寒さのために
  これ以上の進軍かなわず、加賀藩へと
  投降した。

  小四郎たちは、ニシン蔵に拘禁され、
  翌年2月に罪人として、敦賀へと護送
  され、斬首された。



 藤田東湖の子として、恥じぬ政局活動を行ったが、天狗党と結託し、兵乱を起こしてしまう。孤軍奮闘するもむなしく、支援なく討ち滅んだ。