藩政改革の実績をかわれて、大老となる。
幕府権勢の復興を目指し、強引な安政の大獄を敢行した。

佐幕派の筆頭を務め、大政奉還後は朝廷に恭順した。
産業や教育の近代化に大きな功績を残した。

攘夷論を展開するが、藩主・直弼にしりぞけられた。
桜田門外の変後、藩論を勤王論に移行させた。

日米和親条約、将軍継嗣問題で朝廷への調停に奔走。
安政の大獄にも深くかかわり、幕末の世に暗躍した。

藩主・直弼の側近として活躍した。
直弼が倒れると、彦根藩安泰に奔走した。

彦根藩兵の指揮官を勤める。
藩主・直弼が倒れると、彦根藩存続に奔走した。

井伊 直弼 (いい なおすけ)
1815-1860 享年46歳。彦根藩主。

井伊 直憲 (いい なおのり)
1848-1904 享年57歳。彦根藩主。

岡本 半介 (おかもと はんすけ)
彦根藩家老。

長野 主膳 (ながの しゅぜん)
1815-1862 享年48歳。彦根藩重臣。

木俣 土佐 (きまた とさ)
彦根藩家老。

河手 主水 (かわいで もんど)
彦根藩士。

彦根藩 (彦根市)
≪場所≫ 彦根市


幕藩体制の中で、彦根藩は西国抑えの先鋒としての位置
付けがある。
それゆえ、藩内は佐幕派としての色が濃く、幕政絶対の
思想が強かった。
その思想の下に生まれたのが井伊直弼であった。
埋木舎(うもれぎのや)という庵を設け、政事に携わること
なく道楽にて一生を終えるつもりであった直弼であったが
、兄・直亮(なおあき)が病弱で子もなかったことから、
彦根藩主の座が転がり込んできて、直弼の人生も一変
した。
大老を4人も出した藩というだけあって、直弼にもまた、
幕末動乱の幕府の危機に際して、大老職が廻ってきた
のである。
1850年(嘉永3年)、病弱な兄が没したことから、彦根藩主
となった直弼は、非凡な才能をいかんなく発揮して、藩政
を改善。政治手腕を幕府に見せ付け、1858年(安政5年)
難局続きの幕政に呼ばれ、大老の要職を授かった。

幕政の難題はペリー来航によって、もたらされた欧米諸国
の開国要請に対処する問題で、攘夷か開国かで意見が
分かれていた。
また、将軍継嗣問題も起こっており、南紀派と一橋派の
二局に分かれて、議論が紛糾していた。

直弼は開国を支持するわけではなかったが、幕閣の特権
として欧米諸国の事情をよくよく知り得たため、賢明な方
策は、開国しかなく、条約調印も妥当な処置と判断した。
しかし、この直弼の勅許を待たずに条約調印を成したこと
は、諸藩の反感をかい、その不平大名に弾圧を加えた
直弼をさらに恨むという悪循環を生んだ。

有能な将軍を立てて、幕政の安泰を見ようとする佐幕派
の試みをも潰した直弼には、憤慨する者が増えたのは
確かである。
直弼の考えとしては、将軍は血筋を第一とし、才能うん
ぬんは、さしたる条件にはない。
有能な幕臣が幕政を支えていけば、それでよしと考えて
いたのである。

井伊大老への不平が全国で募ってくると、これを察知した
直弼は先手必勝の大弾圧を断行した。
幕臣の中からも弾圧過ぎるとの批判が出たほど、直弼の
弾圧は苛酷を極めていた。
私怨が見え隠れする安政の大獄は、直弼断固排除すべ
しの意見が強まった。
1860年(万延元年※正しくは安政7年)3月3日、桜田門外
の変が勃発し、直弼の私怨に対する報復が成された。
”血の弾圧を行ったものには、10年以内に血の報復が待
つ”といわれるとおり、直弼も例外なくその枠組みに当て
はまって、浪士たちに斬られた。

当初、この襲撃事件は大きな衝撃を内外に及ぼすと考え
られ、幕府はとりあえず直弼は襲撃にて怪我をした程度
であるという内容で公表した。
しかし、異変を知った彦根藩では、藩士たちが続々と江戸
に下り、幕府や水戸藩への報復攻撃をしようといきり
立った。
幕府は事態収拾に取り掛かり、井伊直弼を大老職を罷免
した上で、死亡と発表。
幕府の体面を保ちつつ、藩主不在となった彦根藩に対し、
井伊直憲を藩主として遺領相続を許した。
これにより、彦根藩でも穏便にことを済ますこととなり、
報復の挙兵は取り止めとなった。