名君・島津斉彬を亡くし、西郷隆盛までをも欠いた薩摩藩でぼんやりとした時間だけが流れていた。 雄藩筆頭としての幕末活動を成せないでいる久光に一つの光が差した。 知恵者・大久保一蔵(利通)を側近に迎えた久光に一大決起が成る。藩軍を率いて上洛し、政局の表舞台に立とうという壮大な計画であった。 大久保抜きに成り立たぬこの軍事行動は、久光に一躍、脚光を浴びせる好転を見せた。 |
”貧乏浪士が政局に口出してなんとする!”久光のでかい罵声とともに尊攘派志士たちをどやしつけ、封建秩序を乱すならず者の横行を許さない厳しい姿勢を現す。 この久光の姿勢が寺田屋事件を生んだ。過激尊攘派の薩摩藩士たちが突出するとこれを断固弾圧に出た久光は、斬り捨ててでも秩序を乱すやからを許さず。 秩序を持って、公武合体を成し、攘夷実行を成そうとする久光の姿勢は好評を博す。朝廷からも信任を取り付け、ついには幕政改革を促す勅命を幕府に受け入れさせる武力強請に打って出た。 久光が目指す具体的な姿勢は、諸藩の大名たちの共感を得て、新たな公武合体政権樹立へ向けて、日本全土が動き出す。 |
政局の表舞台で一躍、脚光を浴びた久光は、幕政改革を推し進め、公武合体政権を樹立させ、国内の秩序を乱さずに攘夷を成す新攘夷論者として世間でもてはやされた。 寺田屋事変で見せた強硬姿勢がもたらした成功であり、そのまま、幕府までをも武力で威圧し、幕政改革の要求を受け入れさせた。 順風満帆の久光は、帰京に際して、生麦事件を起こし、またもや過激派尊攘の志士たちを熱狂させた。 しかし、この事件が元で、後に薩英戦争が起こり、攘夷運動は急速に衰えていった。 一方で久光が掲げる公武合体政権も久光が得意とする独裁英断の姿勢が他藩の大名と確執を生み、歩調体勢を取れないまま、解散する憂き目を見る。 終始一貫して強硬姿勢で何事も突っ走って行った久光であったが、それによる成果は上がりもし、下がりもしたのである。 久光の政局での成功と失敗、光と影は強硬姿勢によって、生み出されたものだったのだ。 |